
2008年11月13日
本日午後、安曇野アートラインは定例会を予定していました。
二ヶ月に一度の会合のため、今回も議題は多く『今日も遅くなりそうだなぁ…』と思っていましたが以外にも予定時間内で終了しました。
そして今日もまた宿題を持ち帰りつつ(苦笑)帰館直前の大慌てのおっかけ撮影。(私は最近どうもゆとりが無くてだめ子ですねぇ…トホホ。)
抽選は厳正に行われ、150名様以上の方が当選しています。(発表は発送を持ってかえさせていただくことになっています。)ラリーにご参加くださいました皆さん、本当にどうもありがとうございました☆
ところで…
既にこんな時間ですが、今日参加のあった館の数名の方々からも先ほどまでメールがいくつも届いていました。皆さんそれぞれやはり忙しく、残業や持ち帰り仕事になっているのでしょうね。
頑張りましょうね。。
本日は本当にお疲れさまでした!
コメント
昨日、拝観させていただきました。
芸術って見る人のそのときの心境・心情が大きく左右することを痛感しました。
作者は何を語りたいのだろう。
何を思って描いたのだろう。
など考えながら対峙するのですが、何も語りかけてくれなかった気がします。
また、改めて拝観させていただきます。
投稿者: たぁちゃん | 2008年11月13日 23:48
■たぁちゃん様
はじめまして、コメントいただきどうもありがとうございますm__m。一昨日にご来館くださっていたのですね。
そうですね…作品と対峙するとき、私も作者の意図や想いを考えたりもします。そして同時に自分(鑑賞者)側の心のアンテナがあることにも気がつきます。
芸術と呼ばれる作品はきっと何でも『これこれをこう表現しました』と作家がはっきり明確に表明しない(または出来ない)限り、どうしても制作者側と鑑賞者側の心が存在し、結局想像するものとなるのではないでしょうか?ただ、言葉を尽くしても伝えきれないことは常にある(例えば同じ時間に同じ体験をしても個々の状態や立場によって異なった感情を持つことがあるように)と私は思います。
それでも作家たちは表現を止めず、鑑賞者は観賞を止めない。それは『わかって欲しい(または、わかりたい)』という想いからなのか、それとも単にそれぞれの自己満足なのでしょうか?そしてこの意味が、研究者の在る理由や美術館や劇場の在る理由などにもなっているのではないでしょうか?
受信も送信も、誰もがいつでも出来るというものではないのではないと私も想います。…20年数年前に観て心震えた作品を、素通りしてしまう今があったり、けれどその逆があったり。
作者の手を離れたその瞬間、親離れした作品は人の手によって勝手に歩き出します。作者の匂いをつけてはいても、彼らも独り立ちしたら作者の手は届かなくなる。
ジャンセン氏は『(それぞれ)感じることがすべて』とおっしゃっており、まず何より個々の感性を大切に想って欲しいと願っています。
数分で出て行かれる方、予定外で数泊してまで朝から夕方まで通われる方、全く関心が無かったはずが泣き出してしまわれる方…色々な方がおられて当然なのです。
思うのですが、ジャンセン世界ではなくともまずあれこれはさておき、ありのままの自分で向き合っていただければ、いつかどこかで誰か(作品)が、絶対にたぁちゃん様に話しかけてきてくれると思います。
自分にとってのそんな素敵な出会いがあったとき、真実の感動が稲妻のように『何も要らないんだ』と教えてくれるのではないでしょうか。そしてその時、様々な問いの答えが(ウンチクではなく)まっすぐに降り注いでわかってしまうのかも知れません。
ご来館いただき、どうもありがとうございました。
また、お待ちしています。
投稿者: AJM | 2008年11月14日 09:41