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2007年09月17日
「安曇野でみる彫刻」出品作家の山崎豊三(やまざきとよみ)さんの作品「葦」。今では安曇野からほとんど消えてしまった葦のある風景を、展示室内にインスタレーションのように表現していただきました。この葦はブロンズ作品です。「安曇野でみる彫刻」展はまもなく終了します。どうかお見逃しなく!!
葦叢の中 山崎豊三
葦叢の中を歩いたことがあるだろうか。
葦は背丈よりも遙かに伸び、周りの世界から私を隔離してしまう。私が確認できる外の世界は空だけである。
周りには葦の厚い壁が広がり、風が葦の葉を揺する音の向こうに微かに周りの世界の音がする。
歩き回ると、いったい自分がどの辺にいるのかも見当がつかなくなってしまう。
ムッとするほどの葦の匂いの中で、そのよく肥えたしかもスッと伸びた葦は、色気さえも感じさせる。
誰かがいるような気がして、振り向いてみるが、誰もいるはずがない。
しかも、もしもそこに女の人が立っていて、私を見つめていたら、私はいったいどうするだろう。
葦叢の中は確かに妖しい気分で満ちている。
妖しい気分は次第に私を支配して、草叢の中をあちらこちらへと連れ回すのである。
ところで、作品を作り始めるときに抱くあの「気分」は、いつもこんな気分に近いのだ。何かに魂を抜き取られてしまうような、あるいは、魅入られたような。
私の意志とか意識とかが手出しのできない、と言うよりそれらが否応もなく消されてしまうような気分なのだ。
強い思いだけがあって、意思と意識が曖昧な気分。このような気分のことを「あこがれ」と言うのだ。
この気分は、「私という意識」の知らないところまでもよく知っていて、「私という意識」は翻弄されるように連れ回されるのである。それに引き換え、私は「私の気分」のどれほどまでを知っているのだろう。
六条の御息所の意識は、自分の知らない「私の世界」の広さに驚き動顛するのである。
私がこの葦叢に来たのは作品にする葦を採取に来たのだった。
私の「葦」は葦を「真似る」ことに終止する。
「真似る」。そのものを忠実に再現するわけではないのだが、極めてよく似た行動を採ることであり、この場合、形を写すことである。
そこでは、「私という意識」にとっては厄介な物である。「手」は私の知らない物を、次から次へと「私」の目の前に引っぱり出してくるのだ。「私という意識」は手に制作を促しながらも、「手」の作り出すものを全く知らないというのが現実である。
私は葦のちょうど腰のあたりを握ってみる。
その太さが私の手に心地よさを感じさせ、私の臍のあたりから足のつま先に向かって。くすぐったいような感覚が走り抜けていく。
手で何でも触ってみるのは幼児性の表れだという向きもあるようだが、しかし、「手」は、目や知性の知らないことを沢山知っているのだ。だいいち、手は胸を締め付けるような、あの切ない、不意に何処からか私の気分と手の中に訪れる「憂鬱なあこがれ」を知っている。手を主体として彫刻を考えてみるならば、手は、何を作るのかを問題にすることはない。手はひたすら量と塊をあこがれるのである。その結果、いくばくかの粗末な塊を生むことになるのだが、手にとってその形はそれほど重要ではない。この場合、形は、見られることを意識した量と塊の作る「愛嬌のような物」でしかない。
それより手にとっては、その切なさに痛い程あこがれて、粘土やワックスの表面に行ったり来たりして考えあぐねたその「いじましい程の痕跡」の方がより重要なのである。
私は、妖しい気分を堪能しながら葦叢の中を行ったり来たりする。
六条の御息所の魂も時には加茂の河原の葦叢の中をさまよい歩いたのだろうか。